先生の役割・在り方を再考する ①

執筆者: 山内 佑輔

|

これまで「自由になる」という考え方、それに基づいた授業実践、そして「編む」をキーワードにした教育方法をお伝えしてきました。今回からは、その大前提となる先生の「在り方」について、お伝えしていきます。

「自分は図工が苦手で、うまく授業をつくれない」そんな相談を受けることがあります。その際に、まずお伝えしたいのは、国語や算数など図工以外の教科の授業での、子どもたちとの関係性を変える必要があるということです。
学校では、大人から子どもへ知識を伝達する授業が一般的です。その役割が“先生”である、と。この意識で図工の授業を組み立てようとすると、苦手意識のある先生は、「私自身が上手につくれないのに、子どもたちに指導なんてできない! 」と困ってしまうのです。

でも、安心して欲しいのです。図工の授業においては、先生が上手につくれる必要は全くありません。この授業の時だけは、大人から子どもへ知識を伝達する役割を一旦お休みして、子どもたちと一緒に悩み、面白がり、子どもたちからも教わる、そんな存在になってみませんか?

この図工の時間での先生の「在り方」が捉えられるようになれば、図工の時間はもっと楽しくなるはずです。そして、その「在り方」は他の教科にも転用が可能です。総合的な学習の時間、探究学習など近年ニーズの高まる「正解のない学習」においては、この「在り方」が大いに役に立つはずです。

僕のキャリアは、大学職員9年、公立小学校図工専科6年、私立学校教員兼クリエイティブ空間運営を2年です。
専門性を深めている、というより世界を広げている、と言ったところでしょうか。稀に「図工のスペシャリスト」なんて紹介をされると、その場から逃げ出したいくらい、スペシャリストの自負はありません。ICT教育に関して注目していただくこともありますが、それも正直なところ……

これまでのキャリアで一貫してやってきたことを挙げるとすれば、「誰かと一緒につくること」です。
大学職員の時も、さまざまな企画をつくりましたが、そのどれも1人で仕事をしたことはありません。必ず誰かと行ってきました。

通常、学校では「先生」が「子どもたち」に知識を伝達する(授業をする)という関係が生まれます。

ところが、連載1回目でお伝えしたとおり、偶然図工の先生になった僕にはこれができなかったのです。そこでこれまで同様「一緒につくること」をしてきました。

そのため僕は、「先生」と「子どもたち」で授業をつくる。そして、いつしか「(先生と子どもたちも含む)私たち」で授業をつくる、という感覚を大切にするようになりました。

授業の終わりに子どもたちが「あ〜、楽しかった!」と言ってくれることがあります。そんな時は「僕の授業が楽しかったのではなく、あなた自身が楽しい時間をつくったんだね」と伝えていました。実際にそういう感覚が僕には常にありました。

僕の授業はこれまでも連載で事例をお伝えしてきたように、見本や答えのある制作をしませんでした。僕がきっかけをつくったり、提案はしますが、実際に考えて手を動かしているのは子ども自身、つまり“自分”です。それを「楽しかった」と振り返ることができるのは、“自分”が楽しく考えて手を動かせた事に他なりません。そして、それは1人では楽しくなかったかも。みんながいたから楽しくできた。つまり「“私たち”が楽しくした」のです。そんな雰囲気の時には当然、先生である僕も楽しい。“私たち”が楽しい、に僕もしっかり含まれるのです。

この学び方について、上田信行先生がPLAYFUL THINKING[決定版](2020 宣伝会議)の中で、以下のように解説されています。

これまでの学校教育は、大人から子どもへ知識を伝達する「インストラクション(instruction)」が中心だった。〜中略〜 それに対して、今大きな潮流となっているのが、学びとは何かを体験し、その体験を振り返るプロセスを通じて自ら構築していくものであるという考え方だ。これをインストラクションに対して、「コンストラクション(construction)」という。知識とは他者から与えられるものではなく、自ら創り上げていくもの、つまり「創造するもの」であるという考え方だ。教育学では、このような創造的な学びのことを「コンストラクショニスト・ラーニング(構成主義的な学び)」と呼んでいる。

恥ずかしながら、僕はこの時まで、このような知識があった上で実践をしていた訳ではありませんでした。なんとなく「構成主義的な学び」を実践していたのです。

そしてこの「構成主義的な学び」は学校教育より前に、ワークショップという手法で展開していました。僕は教員になる前の大学職員時代に、共に仕事をしていたNPO法人CANVASを通じて造形ワークショップと出会い、衝撃を受けました。 僕自身それまで、学び=インストラクションだった世界観を、この出会いが大きく変えてくれたのです。第1回で紹介した、山添joseph勇(深沢アート研究所)さんの紙コップのワークショップなどの事例、第12回で紹介した渡辺裕樹さんとの出会いもこの頃です。

渡辺さんは学生時代にワークショップの研究をされていて、僕はその影響を大きく受けています。ワークショップの手法、「構成主義的な学び」が僕の学習環境デザインの原点にあるといえます。

2014年に渡辺さんと一緒に出展したワークショップの祭典にて、その企画が優秀賞を受賞しました。その際に審査委員からいただいたコメントがこちらです。

芸術分野のみならず、工学系等にも子供たちの将来にとってとても大切な図工の時間。その授業時間は、昔と比べ大幅に減り、その内容や子供たちの取り組む意識の向上がとても重要と思われます。これまでの図工の時間の長所を生かし、ワークショップという手法を生かした先生の存在は、これからの図画工作の道を開くとても重要な力となる。本ワークショップはこれからのワークショップのあり方へも影響を与える大きな存在となると思う。(中谷 日出さん)第6回キッズワークショップアワード

見守るでのはなく、子どもと一緒になって手を動かして活動する

このコメントをいただいた当時、実はあまりピンと来なかったのですが、当時から8年経った今、ようやくこの意味が理解できた気がします。それは他でもない僕自身が、「構成主義的な学び」を続けているからです。

さて、ワークショップの世界では、先生(teacher)ではなく、ファシリテーター(facilitator)という役割が存在します。ファシリテーターは、場のメンバーの意見を整理したり、集約したりして、ゴールに導く役割です。「インストラクションの学びの場」では“先生”、そうではない「構成主義的な学びの場」では、“ファシリテーター”という区分けでしょうか。

僕もしばらくは、授業の中での自分の役割はほぼファシリテーターではないかと思っていました。ただ、どうもそれではどうにも説明がつかない違和感もありました。

それが冒頭紹介した「私たち」という感覚です。ファシリテーターはゴールに導くため、その場の流れや雰囲気を掴んで整理したり集約したり、存在感をあえて消したりと、メンバーとの役割が明確に違うのです。

授業の中では、僕が意図的に流れを変えたり、場の雰囲気を整えたりというファシリテーター的な役割になる場面が存在します。そして、何かを説明したり、教える際には「インストラクションの学びの場」にもなり、“先生”としての僕も確かに存在します。

でもそのどちらでもなく、子どもたちの中に僕自身も入り、ともに制作に没入したり、「だったらさ、こんなのどう?」と“その場の1人”として子どもに無邪気に提案したりもします。時には「今日の朝ご飯何食べたの?」と全然違う話題で話しかけたりも…… それは決して、流れをつくるためでも、場を整理するためでもなく、あくまで“その場の1人”として、ぐるぐる動いています。そうして子どもたちの中に溶けこんでしまう時もあるのです。

他の先生が図工の時間を覗きにくると、僕があまりに子どもたちの中に溶け込みすぎて、「あれ?山内先生どこ?」と子どもに尋ねる、なんてことは日常茶飯事でした。

毛糸を使った造形遊びをもとにしたワークショップ実践中。ここが面白い! と思ったら、寝転がって撮影も

こうした姿勢は“ファシリテーター”ではどうにも説明できなかったのですが、“ジェネレーター”という在り方に出会えて、僕はその役割をスッとそこに当てはめることができました。

ログイン

パスワードをお忘れですか?

ー初めてのご利用ですか?ー
アカウント作成

}