「倫理」とは、「かたわらにある人たちと共に生きてゆくためのことわり」のこと
「小中学校では道徳が特別の教科 道徳として教科化されることになりました。これを機に、そもそも道徳って何だろうと考えてみましたが、なかなか答えが見つかりません。子どもに、一言で道徳を説明するとしたら、何と説明されますか」
また難しいことを聞いてきますね。道徳と言ってもいいし、倫理と言ってもいいんですけれど、倫理の方がむしろわかりやすいかな。倫理の「倫」というのは「ともがら、同胞、仲間」という意味です。だから「絶倫」という語がありますけれど、あれは「周りの同類たちとの比較を絶している」という意味です。倫理の「理」は「ことわり、みちすじ、法則性」のことです。ですから、「倫理」というのは「かたわらにある人たちと共に生きてゆくためのことわり」のことです。集団を形成するための、人としてのあるべきふるまいのことです。
他の人たちと共に集団を形成してゆく時に、どうふるまうべきかを定めた条理。それが「倫理」です。別に、定型的な決まりがあるわけじゃありません。だって、集団というのは一つ一つ違いますからね。サイズも違うし、形成された歴史文脈も違うし、社会的機能も違う。だから、箇条書きにして書き出すわけにはゆかない。それでも、世界中のすべての集団に汎通的に適用できる基本的なアイディアはあると思うんです。
「集団全員がオレ」であっても息苦しくない人間であれ
僕の考えは割と簡単です。それは「集団に属する人が全員『僕みたいな人間』でも、とりあえず気楽に暮らせるような人間であること」です。
簡単みたいですけれども、これは意外に厳しい条件だと思うんですよ。集団に属する人間が全部「自分みたいな人間」であるような集団を想像してみてください。その場合、自分がどういう人間であれば、耐えられますか?
例えば、あなたが言うことがつねに首尾一貫している人間だったらどうします。いつも同じことを言い、同じようなリアクションをする人間だったら。あるいは「オレなりのこだわり」とか「オレのポリシー」があって、それについては一歩も譲らない人間だったら。そんな人間で埋め尽くされた集団にいたらたまりませんよね。全員が鏡像のように似ている集団なんて、想像するだけで息が詰まりそうになる。
じゃあ、周りがどんな人間たちだったら、息がつけるか。それは「そのつど変わる人間」ですね。状況が変わるごとに言うこと、することが変わる人間。例えば、オレ、今日はご飯作る係やるよと言ったら、じゃあ、オレ掃除するわとか、オレ買物に行くわとか、ぱっぱと立ち位置や機能を変えることができる人間。役割が固定しないで、その場においてふさわしい、その場に必要とされることが何であるかを察知して、それができる人間。自分の蔵している潜在的能力と、状況が必要としているものを照合して、いま自分にできる最適なこと、最も役立つことは何かということがわかって、それができる人間。そういう人間たちで構成されている集団であれば、「全員がオレみたいな人間」であっても、あまり息苦しくないはずです。だから、倫理の基本というのは、みんな自分みたいな人間であっても生きられる人間であろうとすることだと僕は思うんです。
約束を守るとか、人の物を盗まないとか、嘘をつかないとかって、当たり前ですよね。人の物を盗むのが平気な人間だけで構成されている集団ではいっときも心安らかに暮らせない。眼を離したら、すぐに自分のものがなくなっちゃうんですから、一日中、「人を見たら泥棒と思え」と言って、荷物を抱えて暮らさないといけない。トイレにも行けない。他にも、床にぽんぽんゴミを捨てるやつとか、酒飲んですぐに騒ぐやつと暮らすのも地獄ですよね。
自己利益の最大化をはかるとき、人は自分を呪う
倫理的な生き方をしているかどうかは、ですから、周りが全部「自分みたいな人間」であっても、なんとか生きていけるような人間で自分はあるかどうか、それを自己点検すればわかると思います。
高速道路が渋滞している時に、路肩を走ってゆく人っていますよね。この人にとっては、自分以外の全員がルールを守って、緊急車両用に路肩を律儀に空けてくれている時に自己利益が最大化します。逆に、みんなが彼の真似をして路肩を走り出すと、アドバンテージはゼロになる。つまり、みんなが遵法的にふるまい、自分一人が違法を犯す時に自己利益は最大化する。そうすると、その人は自分のようにふるまう人ができるだけ少ないことを願うようになります。当然ですね。それは言い換えると「私のような人間がこの世にできるだけ存在しませんように」と念じているということです。「私のような人間がこの世に存在しませんように」という「呪い」の言葉を自分自身に向けているわけです。「呪い」の実効性を軽んじてはいけません。朝から晩まで「自分のような人間がこの世に存在しませんように」と祈り続けていれば、いずれその呪いは自分の存在の足元を掘り崩すようになります。
倫理的に生きることは、自身に祝福を贈ること
倫理的であるためには、その反対を考えればいい。「自分のような人間がこの世にたくさんいればいるほど、自分が生きるのが楽になる」ようにふるまえばいいんです。それは自分自身に祝福を贈ることなんですから。
タイタニック号が沈没する時に、救命ボートの空席を前にして、「あ、お先にどうぞ」と言える人たちに取り囲まれている方が、人を押しのけて我さきに乗り込む人たちに囲まれているよりも生き延びる確率が高い。これは当たり前です。だから、そういう時に「お先にどうぞ」と言えるような人間になるように努力すればよい。さすがにそこまでドラマティックな状況に遭遇することはふつうの人生ではめったにありませんけれど、エレベーターの前とか、地下鉄のドアの前とかなら「お先にどうぞ」と言えるチャンスはいくらでもあります。そうするたびに、「私のような人間はこの世の中に存在してよい」という確証を得ることができる。だって、自分で自分を承認し、自分に祝福を贈っているわけですから。それが毎日続いていたら、ずいぶん生きる力は高められると思いますよ。倫理的に生きるというのは、そういうことじゃないかと思います。
(本記事の小見出しは、編集者が追記しました。)
教育を支える出版社として
1948年の創業以来、教育書の専門出版社として、主に学校教育に関わる出版活動を続けて参りました。学術書から実用書まで、教育書という分野において確かな地盤と実績を築いてきたという自負があります。
一方で、社会の大きな変化と、それに合わせた学校教育を含む教育情勢の変化も感じて参りました。創業前年の1947年には最初の学習指導要領が作成されました。当時はまだ「試案」という形で、戦争を省みる言葉とともに、子どもの興味や関心を大切にする児童中心主義の教育観が打ち出されました。
それから約70年が経ち、変わらない本質的な部分は現代に引き継がれつつも、全国の小中学校の9割以上に一人一台端末が配備され、授業風景が大きく変わろうとしています。学校から目を転じてみると、生産年齢人口の減少や科学技術の革新、地球規模での気候変動といった今まで人類が経験したことのない局面に直面しています。そのような変化の時代において、未来を生きる子どもたちのために、教育を支えるすべての人のために、何かまだできることがあるのではないだろうか――そのような思いから、本シリーズを新たに2022年より刊行いたします。