「オン・デマンド」教育の最大の難点とは?
もちろんオンライン〔編集部注:教育〕にはオンライン固有の欠点もあります。最大の欠点は教育が「オン・デマンド(on demand)」になるということです。学生たちが自分の興味に基づいて履修科目を決める。いわばレストランのメニューを見て、オーダーするようなものです。注文した料理を食べる。それのどこが悪いのかと言う人もいると思いますけれど、それだと「食べたことのある料理」に偏ります。どんな味で、どんな栄養があって、どれくらいのカロリーであるかの情報が事前に開示されている選択肢の中からしか選ぶことができない。こういう知識、こういう技術を身につけたい、こういう資格や免状が欲しいという学生たちの側に「プロセス・チャート」があって、その工程表に従ってこつこつと履修して、単位を集めて、卒業する。そこに限定されてしまうというのが「オン・デマンド」教育の最大の難点です。
キャンパスライフの豊かさの正体は「バイ・アクシデント」
というのは、自分たちのキャンパスライフを思い出せばわかると思いますけれど、実際には、どんな科目を履修して、どんな専門分野を選んで、どんな研究室に所属することになったのかって、おおかたが偶然なんですよね。大学教育の実態は「バイ・アクシデント(by accident)」なんです。
入学して、たまたま誰か新入生と知り合いになって、その子と一緒にキャンパスの中をうろうろ探検しているうちに、その子がどこかのクラブの見学に行かないかと誘ってくれたので、特に興味はなかったけれどついていって、勧誘されて、そのまま入部したとか。友だちとおしゃべりをしていたら、その子が「僕、次の授業があるから」と席を立ったので、何となくついて行って、履修する気がなかった科目をとることになったとか。そういうことは大学ではしばしば起きるわけですよね。大学生活でわが身に起きることの多くは「図らずも」起きたことなんです。入学するまではそんなことにかかわり合うことになるとは思ってもいなかったことにかかわってしまい、それで人生の方向が大きく変わったということが実に多い。高校生の時にプロセス・チャートをこしらえて、この大学のこの学科に進学して、こういう科目を履修して、この資格を取って、こういうところに就職して……と予定したようにはならないんです。その偶発性のうちにキャンパスライフの豊かさはあると僕は思います。
学びが起動するための「わからなさ」
「あくび指南」という落語があります。八五郎が道でばったり熊五郎に会います。熊さんはこれから芸の稽古に行くんだけど、一緒に来ないかと誘われます。熊さんはこれまでもいろいろな芸事をかじってきたんですけれども一つもものにならない。
今度は何を習うんだいと訊くと「あくび」を習うという。八さんもちょっと興味がわいて、ついて見学に行くことにする。あくびの稽古は基本の「夏のあくび」から始まります。大川を船でくだって吉原に乗り込むという設定で「船もいいが、こう長く乗ってちゃ、退屈で退屈で」とあくびをするんですけれど、熊さんは覚えが悪くてなかなか稽古がはかどらない。八さんは飽きて居眠りを始める。稽古が終わって起こされた八五郎は「見ているオレは退屈で、退屈で」とおおあくびをする。それを見た師匠が「おや、お連れさんの方がご器用だ」というのがオチです。この落語は教育の本質を実にみごとに突いていると思うんですよ。「おや、お連れさんの方がご器用だ」というのは、ほんとうにそうなんです。これと同じことが大学では実に頻繁に起きている。くっついていった方が部活に入部して、そのあと主将になったとか、くっついていった方が研究室に入って、そのまま大学院まで行ったとか、そういうことは、もう枚挙にいとまがないほど起きている。
熊さんは何を習うかわかって習いに行くので、これは「オン・デマンド」です。八さんは何だか知らないけれど、ついていったわけで、こちらは「バイ・アクシデント」です。熊さんは自分が何を習うのかわかっている。あくびがどういう技能で、どういう「有用性」があるか、わかっている。だから、それを身につけようと思った。たぶんちゃんと「キャリアパスポート」にも「20歳の時にあくび指南に入門して、免許皆伝を得る」とか書いてあるんでしょう。でも、学ぶ前にそこで学ぶことの価値や意味がわかったつもりでいるというのは、学びを起動させる上では決してよいことではない。よいのは、これから自分が何を習うことになるのか意味が分からないけれど、何となくついてきちゃった……というスタンスです。ふつうなら「あくびを習いに行く」と聴いたら、「バカ野郎」で終わります。でも、八さんは「あくび指南って、何だろう」と思って、ついていってしまった。好奇心が発動した。熊さんは自分が習うものが何であるかがわかっているつもりでいる。八さんは何を習うのかわからない。この学びに対しての「開かれ方」の違いが決定的な差を生み出します。
「学園マンガ」に共通する「呼びかけ」
「学園マンガ」というジャンルがあります。学校を舞台にした面白いマンガ、いろいろありますけれど、『もやしもん』とか『動物のお医者さん』とか『銀の匙 SilverSpoon』とか、どれにも共通するのは、主人公が学校に行ったせいで、変な人と友だちになり、変な先生の研究に付き合わされ、変な部活に勧誘され、思いもかけない冒険の日々を送るようになるという筋立てです。主人公たちは誰一人予定通りの学生生活を送ることがない。思いもかけない出来事に「巻き込まれる」ことで学園生活が生き生きとしたものになる。これはすべての「学園マンガ」に共通しています。このパターンは、子どもたちの無意識的な願望を表現していると思います。
いま学校では、小学生から将来設計を書かせて、その目標を達成するために、いつ何を学ぶかまで工程表を作成することを義務づけようとしています。「買い物リスト」を手にしてスーパーに買い物に行くような気分で、自分の学びの過程を一望俯瞰することを子どもたちに強要している。もちろん、それは無駄な迂回をせずに、最短距離、最短時間で、目標に到達することを支援するという学校側の「善意」ゆえなのでしょうけれども、それは子どもたちがほんとうに学校に期待していることを裏切っていると思います。子どもたちが求めているのは、「まだ知らない世界」に入ることだからです。思いがけない冒険に巻き込まれることだからです。
子どもが小学生の時に描いたシンプルな「地図」を手にして、わき目もふらずに歩き続け、どんな出来事が起きても、どんな呼びかけがあっても、一切の外部情報を遮断して、目的地をめざすということをさせて、いったい何をしようというのでしょう。
学校で子どもたちが経験するのは「呼びかけ」です。誰かに「ねえ、君。ちょっと来てよ」と声をかけられる。これは自分であらかじめ仕込んでおくことができない。でも、学校というのはまさにこのような無数の「呼びかけ」が行き交っている場です。キャンパスをぼんやりと歩いていると、誰かに「ちょっと来て」と声がかけられる。そして、その呼びかけはたいていの場合「ちょっと手を貸して」という「救援の要請」なんです。
これはあらゆる学園マンガに共通していますから、ぜひご自分でチェックしてみてください。冒険が始まる時の最初のきっかけになる言葉は「ちょっと手を貸して」なんです。そして、人間は「ちょっと手を貸して」というタイプの要請を断ることができない。
人が「主体」として立ち上がる瞬間
孟子に「惻隠の心」という言葉があります。これは井戸に落ちそうになった子どもを見たら、思わず手を出して助けようとする心根を指しています。別に計算があるわけじゃない。助けたら、子どもの親からお礼がもらえるかも知れないとか、助けないと「非人情なやつだ」と周りから責められるかも知れないとか、そういう計算抜きで、ぱっと手が出る。そういうものです。同じように、「ちょっと、手を貸して」と言われたら、ぱっと手が出る。とりあえず学園マンガではそうです。「ちょっと、そこ持ってて」とか「ちょっと、そこ抑えてて」とかいきなり言われて、図らずも手を貸してしまったところからそこで行われている不思議なゲームに巻き込まれる。
でも、これは人類学的真理なんです。人間は「救援の要請」を断ることができない。それは「救援信号の宛て先はそれを聴き取った者である」という太古からのルールがあるからです。聴き取った者が「宛て先」なんです。「宛て先」はあらかじめ決まっていたわけじゃない。聴き取ってしまった者が「宛て先」に指名されて、ただちに応答責任が発生する。その時、人は「主体」として立ち上がる。
「他者からの承認」というのは、いろいろなかたちがありますけれど、要するに「あなたはそこにいる」と認められるということです。認知的にただ「あなたはそこにいる」と言うだけでもいいけれど、「あなたがそこにいることを私は願う」という遂行的なメッセージの方がずっと承認の強度は高い。そして、「あなたがそこにいることを私は願う」というメッセージを端的に表現したのが「ちょっと手を貸して」であり、さらに端的に言えば「助けて」ということになるわけです。人間は他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。昔からそういうことになっているんです。
学びのために本当に必要なこと
だから、学びの場に立った時に、子どもたちに必要なのは、キャリアパスポートだとかポートフォリオだとかいう野暮ったいものではなくて、自分の支援を求める声に耳を傾けることなんです。オン・デマンドの教育では「呼びかけに応答する」というアクシデントが起こらない。オン・デマンド教育では、相手がディスプレイの中の先生の画像であっても、クラウドに置いてある取り置きの映像でも、あちらから「ちょっと手を貸して」という要請が到来することはありません。構造的にない。
人生の早い段階で目的を決めて、以後まっしぐらに進むって、僕は少しもよいことだと思わないんです。たしかに、若くして人生の目的が決まって、以後終生揺るがなかったという人もいるかも知れませんけれど、ほとんどの人はそうではない。そういう人の場合は「あくび指南」的に、何となく気が向いて、ふらふらついていったところで「天職」に出会う。それも高い確率で、ということをぜひアナウンスしておきたいと思います。
(本記事の小見出しは、編集者が追記しました。)
教育を支える出版社として
1948年の創業以来、教育書の専門出版社として、主に学校教育に関わる出版活動を続けて参りました。学術書から実用書まで、教育書という分野において確かな地盤と実績を築いてきたという自負があります。
一方で、社会の大きな変化と、それに合わせた学校教育を含む教育情勢の変化も感じて参りました。創業前年の1947年には最初の学習指導要領が作成されました。当時はまだ「試案」という形で、戦争を省みる言葉とともに、子どもの興味や関心を大切にする児童中心主義の教育観が打ち出されました。
それから約70年が経ち、変わらない本質的な部分は現代に引き継がれつつも、全国の小中学校の9割以上に一人一台端末が配備され、授業風景が大きく変わろうとしています。学校から目を転じてみると、生産年齢人口の減少や科学技術の革新、地球規模での気候変動といった今まで人類が経験したことのない局面に直面しています。そのような変化の時代において、未来を生きる子どもたちのために、教育を支えるすべての人のために、何かまだできることがあるのではないだろうか――そのような思いから、本シリーズを新たに2022年より刊行いたします。