不登校を経て世界を飛び回るフォトジャーナリストとなった佐藤慧さんが多感な子どもたちに綴った読み物、10分後に世界が広がる手紙シリーズ全3巻(小社刊)。ここでは、学校という場のかけがえのなさや、不安・窮屈さを感じている思春期の心に向き合う5話を、Edupia連載として再編集しました。
第5回は『勉強なんてしたくない君へ』収録の「ぼくってヘン?」。自分はヘンなのではないかと苦しんでしまうこと、誰かのことをヘンだと決めつけること、それは同じ根っこの話――。
「ヘン」と「ふつう」を決めるもの
君のクラスには、「ヘンなやつ」だと思われている人はいますか?
もしかしたら君自身が、「ヘンなやつ」だと、言われたことがあるかもしれません。ぼくは、小学校はときどき仮病を使ったりもしながらなんとか通ったものの、中学校は不登校だったし、高校へもまっすぐ入らなかったので、まわりの人たちからは、「ヘンなやつ」だと思われていました。ぼくも「自分はヘンなのかな」と思ってしまい、いつしか自分のことを「欠陥品」のように感じていました。
でも、「ヘン」っていったい、どういうことなのでしょう?
みんなそれぞれ、顔も名前もちがえば、趣味や、苦手な食べ物もちがいます。なにかが「ヘン」だと言うときは、きっとそれを言う人の中に、「これがふつうだ!」という「がんこなモノサシ」があるときではないでしょうか?
イラクという国で、取材をしていたときのことです。ある男の人に会い、話を聞いていました。かれは男性ですが、男の人に恋をする、同性愛者でした。ところが、男性が男性を好きになることは、かれの故郷では、まだまだ「ヘンなこと」だと思われていたのです。男性の恋人と会っていたところを、警察に見つかり、木の棒で思いっきりたたかれたこともあるそうです。かれは、「自分がヘンだからいけないんだ」と思い、家族にも話せず、苦しんでいました。
もしかしたら君は、テレビや漫画などで、そうした人々をからかうような場面を見たことがあるかもしれません。学校でも、それをまねする同級生や、「そんなのヘンだよ」という大人たちを、目にしたことがあるかもしれません。
でもそれは、本当に「ヘン」なことなのでしょうか。世の中には、「男の人を好きになる男の人」もいれば、「女の人を好きになる女の人」もいます。
「性別に関係なく、好きな人を好きになるだけだよ」という人もいます。「女の子として生まれたけど、心は男性なんだ」という人もいれば、「男の子とか、女の子とか、どっちも自分にはしっくりこないな」という人もいます。
そう考えると、「異性を好きになる」というのが「ふつう」のことで、それ以外は「ヘン」だというのは、自分勝手な、「がんこなモノサシ」なのではないでしょうか?
モノサシではかれないものはこわい
「ふつう」というのは、ときと場所で変わります。
君はおさしみや、おすしは好きかな?
たとえば外国で、「日本では魚を生で食べるんだよ」と言うと、「うえー!」という反応をされることがあります。でも反対に、「ザンビアではイモ虫を食べるんだよ」と言われたら、もしかしたら君は、「うえー!」となるかもしれません。ぼくはイモ虫も食べたことがありますが、なれるとなかなか悪くないものです。
知らないものにふれるのは、なんとなくみんなこわいので、「ふつう」というモノサシではかれないものは、「ヘンなもの」だと決めつけて、追い出してしまったほうが安心するのかもしれません。
でもそうやって、「ヘンなもの」を追い出してしまうことで、世界がつまらなくなったり、だれかが苦しんだりはしないでしょうか?
人が人を好きになるということは、この世界で生きている中で、かけがえのない、すばらしいことだと思います。それなのに、「男の子が男の子を好きになるなんて、ヘンだよ」と否定してしまったら、その人は「自分はだれも好きになっちゃいけないのかな」と、思ってしまわないでしょうか。
その人からしたら、異性を好きになることのほうが「ヘン」に思えるはずですが、ほかの人の「がんこなモノサシ」のせいで、「自分が欠陥品なのかな」と、どんどん自信を失ってしまいます。
ぼくのモノサシと君のモノサシはちがうということ
もし君が、だれかや、自分自身のことを「ヘン」だと思ってしまうようなことがあれば、その「がんこなモノサシ」が、いったいどこからやってきたのか、ちょっと考えてみてください。
もしかしたら、「テレビでやってたから」とか、「大人がそう言ってたから」という理由で、自分で考えたわけでもなく、いつの間にか、身につけてしまったものかもしれません。
だからもし、そんな「がんこなモノサシ」が、君の心のポケットに入っていることに気づいたら、みんな「ちがうモノサシ」を持っているからこそ、世界は面白く、たくさんの学びがあるということを、思い出してみてください。
世界にはだれひとりとして、まったく同じ人間はいません。どれだけそっくりでも、ちょっとずつちがいます。そして同時にぼくたちは、住んでいるところや、話す言葉、皮ふや目の色、好きになる人も、きらいな食べ物もちがうけれど、みんな同じ人間です。
みんなちがう人間だからこそ学び合えるし、みんな同じ人間だからこそ、悲しみやよろこびを、分け合うことができるのです。